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セルビアへの旅
大屋 峻
初めての西バルカンへの旅である。6月25日午前10時30分成田発オーストリア航空ウイーン行きに乗った。割引のエコノミー券なので、エアバス機の一番後ろのキャビンの席である。満員でも便所へ立つのが億劫にならないように、何時もの通り通路側の席を取ったのであるが、幸いにも私の隣の窓側の席は空いていた。周囲には朝日新聞の社旗をかたどったバッジを付けた60から70歳台の男女の団体客が多い。幸いにも大学生などの夏休みはまだ始まっておらず、若者の団体客風はいない。60歳を過ぎるとおばさんたちも、ひとしきり喋り捲ると寄る年波に勝てずくたびれて眠るのである。
ウイーンまで12時間弱の空の旅である。飛び立って1時間位経過したときに食事である。鶏肉のクリーム煮か、魚の和食が選べる。私は魚の和食を選んだ。美味くない。自宅で朝6時前に起き、ジュース1杯だけでバスに乗って、首都高5号線の事故渋滞に巻き込まれいらいらしながら成田まで到着したので、腹が減っていた。不味くても空きっ腹には何でも入る。すきっ腹で不味い。
食べると1から2時間うとうと昼寝、起きだして、これから1週間の仕事の準備をしようとコンピュータを鞄から取り出し、スイッチを入れるがうんともすんとも言わない。ラップトップを入れていた鞄には他に書類など入っており重くて、少々がたがたした歩道をごろごろ引っ張ってきた。ショックで壊れたのか、ラップトップのどこかに安全のための別のスイッチが付いているのか一生懸命探すが見つからない。ラップトップの説明書は家に置いたままである。しょうがないので、家にいる娘に「説明書を探してもらうよう、もし判らなければNECサービスセンターへ電話し尋ねるよう」Faxの原稿を書く。ホテルに入ってチェックをし、動かなければFaxを送ることとする。
家でこのラップトップを使うときは何時も電源線が繋がったままである。昨夜コンピュータをシャットダウンして、袋に入れ鞄の中に入れた。おかしな作業はしていない。安全のため、講演するためのPowerPointファイルはスティックメモリーにとってあるのでと自分言い聞かせる。いらいらどきどきである。
オーストリア航空機の機内を見回す、われわれの最後尾キャビンの乗客は9割くらい日本人のようである。便所に立つとき見たこのキャビンの一番前に座っている欧州系の顔をした中年の男性は、読売新聞を横に置き週刊新潮を読んでいる。客室乗務員も数人は日本人である。
ラップトップが動かないので、たくさん印刷してきた資料類に目を通す。資料を読み出すとすぐ眠くなる。うとうとしているとスナックである欧州系の女性客質乗務員が英語で、”sandwich、cup-noodle or o……?”と聞いてくる聞き取れない。聞き返すと”onigiri”である。Sandwichとコーヒーを頼んで食べ終わると、書類に目をやり始める。またすぐうとうとである。老眼が進んで読みにくくなったことに責任を転嫁し、うとうとに身を任せる。
11時間30分後にウイーン到着である。当地の時刻午後3時20分、日本との時差は7時間である。ウイーン国際空港ではわれわれの東京からの飛行機が着き、午後5時発予定の関西空港行きがあり、飛行場のターミナルにいる乗客の3〜4割は日本人である。小さなターミナルである。成田、羽田、関西空港を知っているものにとっては、あの有名なウイーンの空港かと思ってしまうくらい小さい。4時間くらいの待ち時間でセルビアの首都ベオグラード<英語の表記はBelgrade発音はベルグレードに近い)がセルビアではBeograd(ベオグラードに近い)と呼ぶらしい>行きが出るので、空港ターミナル内で時間をすごす。サンドイッチなどもある小さなコーヒーショップとビールやアルコールが主なちょっとした食事も出るバーと呼ぶようなものの2つしか食べ物屋がない。みやげ物店も小さなものが2つしかない。本屋がありそこで英国Bradt社の”Bradt(文字通りブラットである) Travel Guide-Macedonia”を購入する。24Euro(3500円)である。
オーストリア航空と共同運航しているセルビアの航空会社のベオグラード行きの飛行機は双発のプロペラ機でYSのような片側2席の1列4席で20列くらいの小さな飛行機である。明らかに日本人のような30から40歳台の男女、および同じく40歳前後くらいの男子1人と私も入れると4人日本人が乗っていた。私の横には30歳くらいのセルビア人女性(キリル文字のセルビア語の新聞を客室乗務員から受け取り読んでいたのでセルビア人)が座った。飛行機が飛び立ったのは午後7時30分成田を飛び立ってから既に16時間後で日本時間では午前2時30分である。日本―ウイーン間でよく寝たからかあまり眠くない。横の女性に、ベオグラード空港からHotel Majestic(知り合いから紹介されたホテルは満室で、インターネットで探したもので1泊85ユーロ)へタクシーの料金は幾らか、タクシーの値段はメーターなのか交渉次第かと聞く。交渉次第で乗る前に決めること、彼女も長い間セルビアから離れているので良く分からないが、彼女ならなら15ユーロくらいを頭に入れ交渉するとの答えを得る。ちなみにベオグラードとは白い(ベオ)町(グラード)だそうである。飛行時間1時間10分で到着。飛行機で横に座った女性はセルビア人で、現在ウイーンで働いていると言って名刺をくれた。最初のセルビア人の友人である。そうだ彼女は大学を出てベオグラードにあった自動車製造会社に就職し、何年も立たないうちに1991年頃会社が解散色々苦労したようだ。彼女の年は35歳を越えているのである。
ベオグラード空港は小さい。入国手続きの書類は見付からないので、パスポートだけ持って入国管理官の前に進み出ると、私のパスポートを見ながら番号か何かをコンピュータに入れ、ほんの10数秒くらいで、適当なところにスタンプを押してOKである。荷物を受け取り、歩いていくと、税関職員のようなおばさんが出口へ向かって指差すのでそちらへ歩いていった。10人位の乗客の到着を待っている人を掻き分けると、タクシーの客引きのおじさんが来て”Taxi?”と聞く。勿論イエスで”How much to Hotel Majestic?”先方はちょっと考えて”25Euro”。外国人割り増しで約1,5倍しょうがないでしょう。そろそろ眠くなったのでタクシーに乗って、先ほどの飛行機の中の女性もタクシーの客引きも知っていたかの有名なHotel Majesticへと向かった。(後に訪問した会社の人に聞いたら、ベオグラードに住む人は空港から市の中心部までのTaxi代は10Euro払えばすでに払い過ぎだと思うと言っていた)
高速道路を走って街中に入ったTaxiは、繁華街の街頭ビヤーガーデンの前にとまって、ここまでしか行けない。Hotel Majesticはそこだと指差す。ありました100人くらいテントの下でビールを飲んでいる人たちの向こうの壁にHotel Majesticのサインがありました。やっとたどり着いたのは現地時間午後9時過ぎ(日本時間の26日午前2時過ぎ)です。
飛行場で、飛行機が着地してから多分40分くらいでホテルに入れたのではないかと思います。入国手続き、荷物受け取り、税関、Taxiと非常に滑らかです。
ホテルにも予約はきちっと入っており、警察?へ外国人の登録をするためにパスポートをチェックインのカウンターに置くとすぐ部屋へ入れました。食堂へ行ってスープを食べて、先ほどチェックインの際受付に置いておいたパスポートを取り返し、ベッドへと向かいました。航空機の中で見た日本人男女は同じホテルへチェックインし、食堂で他の日本人2名と日本語を話す欧州人のおばさんと5名で食事をしていました。夫婦ではなく仕事仲間のようです。
6月26日(日曜日)昨夜は10時30分に就寝、5時前に起床した。
6時から始まる朝食をとりに食堂へ降りた。朝食は色々なパン(ゴマが付いたパンのゴマがおいしい)と、ジュース(オレンジジュースかブルーベリージュース)コーヒーか紅茶、卵料理である。卵料理はオムレツを頼みオムレツにはチーズ、マッシュルーム、ハムなど全て入れてもらった。日本のビジネスホテルで朝出る物の3倍くらいある大きなオムレツであった。ウエイターは一応英語を話す。先ほどのBlue berryが聞き取れず3回聞きなおしましたが。
40Euro をこの国の通貨3,286Dinarと両替。両替はホテルのreceptionの横にある両替機で行った。説明がSerbia語でしか書いてないため、横にお姉さんが付きっ切りで教えてくれた。お姉さんが直接両替したほうがよっぽど早そうである。ここの両替機は「こんにちは」とか「ありがとうございました」とか日本のこのような機会のように話さないのが好きである。
ホテルでどこへ行こうかといったら、歩いていける森へ行け。そこには戦争博物館や動物園があるとの事でKalemegdan forestと言うところへ歩いていった。この国最大・たぶん最高級の商店街で高級店が並んでいる。道の真ん中にはテント張りのカフェーがある。途中の本屋で、Bradt社のTravel guide Serbiaを1500Dinar (20Euro弱)で購入。
ホテルからは全て歩行者専用の道を通り、公園の入り口で道路と路面電車の道を横切った。信号はあったが、日曜日のためかそれが普通なのかあまり交通量は無く、信号無視で横切った。公園は広く、木が茂り、朝10時には相当多くの人が散歩していた。
これは絶好のジョギングコースである。ホテルにとって帰して、ランニングの服装に着替え、靴も履き替えて走った。出来るだけ長く距離が出るように曲がりくねりしながら1周20分強でジョギングしたので多分3.5kmくらいである。2周して引き上げた。この森の中には動物園やダニューブ川に面して城壁跡、戦争博物館などがある。ダニューブ川には、たぶん観光用客船と思しき船が浮かんでいた(後で分かったのですがこれはほとんどがレストランでした)。漣は見えていたのであろう。「ドナウ川の漣」である。
明日会合する会社の社長と、短い時間会って、明日10時にこのホテルのロビーで会う約束をした。
ホテルから歩いて1分のところに、国立博物館、国立劇場があり、2〜3分のところに国会議事堂がある。本当に町の真ん中らしい。国会議事堂の前では、多くの子供(であって小人ではない)がたくさん集まりバスケットをしている。トラックが止まり音楽を流し多くの人が集まっている。高校生くらいまでのチームのバスケット教室かキャンペーンであろう。大人も2m近いもしくは以上の人が何人かいる。子供も同じく2mがいる。NBAを夢見ているのであろう。このあたりはバスケットボールの選手、サッカー選手(有名な元名古屋グランパスにいたストイコビッチはセルビア人)、K1の選手の産地である。
ホテルのTVではCNN, BBC, EUROSPORT, 幾つかの地元のTV局の放送が写る。
今のところ瞬間停電を含め一度も経験していない。ホテルの部屋にも停電の備えの懐中電灯や蝋燭は備えてない。
便所の水洗は、蛇口をひねって水を出すもので、水圧・水量ともに十分で3秒くらい流せば朝私の出したものは簡単に下水管へと消えて入った。
この国の普通の電気は電圧が240V である。周波数はまだ分かっていない。差込の形は丸い足2本のもので、日本から来た場合は特別なコンバーターが必要である。
昼の3時気温は33度である。部屋にエアコンはないが、そんなに暑くは感じない。
昨日飛行機内でパニックになったラップトップの故障は、故障ではなく電池が干上がってしまっただけである。先ほどから約1時間電源をはずして昨夜の充電を利用しコンピュータを使っているが、電源はまだ2.5時間残っているとの事である。
昼食はこの国の銀座通りにあるテントの下で食べた。メニューは全てセルビア語(セルビア語であるという確証はないが、日本語、英語、ドイツ語、スペイン語など私の知る言語でないことは確かである)であるが、ウエイターは英語で、これはピザで、何をトッピングにするかである、こちらはパンケーキで、チーズやハムを入れるとの事であった。パンケーキにあるもの全て入れたものと、250ccのコカコーラ、500ccの水を注文した。合計300 Dinar強であった。レストランの食事には全てのものに括弧の中にグラム数が書いてあった。カロリーが書いてあるメニューは見たことはあるが全てに重さが書いてあるのははじめてである。日本では大盛りと書いてあるだけよりは分かりやすいかもしれない。ちなみに、ピザは850gと書いてあって大きいかと言ったらMedium size普通は2〜3人で食べると言われ敬遠した。
250 ccのコカコーラはホテルの部屋の冷蔵庫で100Dinar、昼食のレストランで同じく100Dinar、街角の売店では500ccのコカコーラが55Dinarである。
若いお嬢さんたちのことを書いていない。美人である。大柄に人が多い。胸は大きく、肩が大きく開いて丈の短い体にぴったりした上のシャツと、下は臍下10cmくらいまでしかない股上の短い流行のパンツが多い。後ろから見るとパンツの下の下着の形が読み取れるものが多い。中には年配の人もこれを真似ているが、これは頂けない。シャツとズボンの間に、ぴっちりしたズボンをはくときに強引に押し出した肌色の浮き袋状のもの(脂肪が多いだろうから機能的には浮き袋と同じ役目をしてくれるだろう)が横にはみ出しちょっといただけません。シルエットではまさに浮き袋を腹に巻きつけた状態である。
今午後3時半である。昨日のウイーン着陸の時刻と同じ日本時間では午後10時半である。
あまり遊んでいてはいけない。これから明日のインタビュー用の準備である。
夕食には、トマトとシャシリク(シシカバブである)を、デザートにスイカを注文した。シャシリクは美味しかった。肉と肉の間に玉葱と小さな牛肉の脂身が挟んである。コレステロールのもとかもしれないがこの脂身がちょうど良くとてもおいしい。スイカは三日月形の相当大きいのが大きな皿に乗ってごろんと出てきた。これも美味しい。満足である。
明日からは本格的な仕事である。
27日は朝から鉱山会社の本社で社長と話しをし、午後、この国で唯一私有化された鉛・亜鉛・銅鉱山Rudnikを訪問した。Beogradから100km強あるが1時間ちょっとで着いた。
見学の後、空港まで送ってもらうときに、時間があるなら少しは観光しろとの事でBeogradの市街地へ入った。案内してくれたのは、NATOが空爆した、元警察本部、元国防省跡など全く修理されていない爆撃の痕(この時が当てはまると思う)である。昼食のときに、セルビア料理はと聞くと、オットーマントルコの影響の料理が多いとの事で、こちらから、トルコ風と言うのは禁句ではないのかと聞いても、平気・平気との事であった。しかし後の観光でNATOの空爆に対してはいまだセルビア人の心の傷跡が大きいことが判った。
Beogradの空港側の郊外では新しい建築が急ピッチで進み、町の復興と言うか景気のよさが垣間見えるが、町の真ん中官庁街に爆撃で崩れたままの大きなビルディングがあるのは、残っていると言うより、残していると言うほうが正しいのであろう。
イラク人のアメリカ(日本も仲間であろう)に対する気持ちはこの何百倍かもしれない。
午後9時30分発マケドニアの首都Skopje行きの飛行機でSkopjeへ飛び立つ。
ポケットやスーツケースを探しても名刺入れが出てこない。多分乗せてもらった自動車の中に落としたのであろう。実害は2000円くらい残ったパスネットと2000円くらい残ったSuicaである。(後ほど、あんなにしてくれて鉱山会社の人から財布があったとの返事を戴いた。ありがとう)
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