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すっごい時間差ですが、ごめんなすって。
「供養」と「布施」は同義のようですが、チベット語においては次のような違いがあります。
与える対象を4つに分類するのですが、そのうち上位2つと下位2つにさらに分けます。
上位のものとは、仏や菩薩などの尊いものたち、
下位のものとは、六道に輪廻するものたち。
上位に与えることを「供養」といい、下位に与えることを「布施」と使い分けます。
そのことをお含み頂き、以下をお読みくださいね。
凡夫たる私の身体にはみほとけがましまして、そのみほとけに供養するために食事を摂る。
みほとけに供養するための食事であるから、誠心に調理してお供えする。
食する時は喉に阿弥陀仏を観想して、供養すると観想する。
そして、私の右肩に阿弥陀仏を観想する。
私が歩けば、阿弥陀仏を右遶(右回りに回る)ことになる。
私たちが袈裟を右肩を出して着用する(偏袒右肩)のはみほとけに対する敬意である。
インドの礼儀作法なんですね。
インドって未だにトイレットペーパーを使わないでハンドウォシュレットじゃないですか?
ハンドウォシュレットに使う手は左手と決まっていて、それは不浄の手。
だから、食事をする時は絶対に右手だ(これまたスプーンを使わずに器用にカレーを口に運ぶ)。
そりゃ、ハンドウォシュレットした素手でごはん食べたくないよね?
だから右は尊い方角であって、みほとけを礼拝する時は、右回りに回る。
現代でも、お堂というのは右回りに回る。
もし、お堂を回る機会があったら、右回りに参拝してくださいね。
話を戻すけれども、
このように考えると、日常生活、どれをとっても仏を供養し礼したてまつることに他ならないわけで、
俗事だと思っているようなことも、実は聖なる行なのかもしれません。
浄穢を超えていくのは仏教の真髄、空の完成でしょう。
だけど、凡夫にはイキナリ無理。
ハンドウォシュレットの手でご飯を食べろ、と言っても、生理的に無理。
だから、心を静め、誠心で調理をして、身体にましますみほとけに供養する、
それでいいのではないでしょうか?
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